2016年09月10日

【読書狂の冒険#036】古市憲寿『誰も戦争を教えてくれなかった』講談社

 また遅刻してしまった。最近忙しいから仕方ないと思おう。
 今月からのテーマは「駄本を読む」。冒険が常に成功するとは限らないように、本との出会いは常にいいものとは限らない。期待して読んだ本が大したことなかったり、適当にめくったページにとんでもないことが書いてあったりというのは日常茶飯事である。特に、低迷しているとは空前の出版ブームの昨今にあっては、出版社の気まぐれで出したとしか思えないわけの分からない本が星の数ほどある。
 もっとも、今回取り上げる本の大半は、ダメなものだとわかっていて手を出したものだったりする。怖いもの見たさというか、その土地のゲテモノをあえて食べてみるのも醍醐味だと思うし、そうすることでより一層傑作のありがたさが身に染みるというものだ。
 というわけで、今月のテーマではダメな本を散々にこきおろしていくとする。

 さて、今回取り上げるのは古市憲寿『誰も戦争を教えてくれなかった』。当人は社会学者を名乗っているが、学者の定義をその専門分野で碌を食んでいることだとするならば、彼は社会学者ではない。ここから既にダメな匂いがぷんぷんする。
 彼は若者代表としてメディアに取り上げられることが多いが、既に30を超えている。全然若くない。そして、博士課程後期に入って3年経っても博士号の取れないオーバードクターである。数年ならまだしももう10年近く博士課程に在籍しっぱなしなので、研究者としては落ちこぼれもいいところだろうが、本の裏表紙にはこんな情報は載らないので気にしていないのだろう。
 とにかく、社会学者であるかすら極めて怪しい著者が、頭の中の想像と気楽な観光旅行で書き上げた本が、本書であるというのが今回の記事の結論である。

 本書のきっかけとなる問題提起は、若者が戦争を知らないというものである。著者は、ここで原爆投下の日付(終戦のだったか?)を問う問題の正答率が高くないことをその根拠にしている。
 言うまでもなく、日付を答えられることと戦争を知っていることには大きな開きがある。特に最近の若者は、学校での平和教育で戦争時のエピソードを嫌というほど聞かされているので、日付は記憶になくともそのようなことは記憶にある人は少なくないだろう。本書の根幹をなす主張の構築がこのレベルである時点で、著者の研究者としての能力の限界が知れるというものである。
 念のために指摘しておくが、社会学全体のレベルがこのようなお粗末なものだというわけでは断じてない。私は大学で平和教育に関する社会学の調査を受けたことがあるが、どのような教育を受けたのかわりと事細かに聞かれたし、日付は聞かれなかった。

 そこから先の記述は、社会学のものというよりはただの観光日記とも言うべきものだった。著者はいろいろと戦争博物館を訪れ、旅先で見て感じたのだろうが、その考察が「ここではこんな展示をしてるんだなぁ」というレベルだし、そもそも最初の問いである「若者が戦争を知らない」ことと戦争博物館がどのような関係があるのか繋がりが見えてこない。とてもではないが、社会学の名に耐えうる文章ではない。
 ただ、訪れている戦争博物館は国内外の多岐にわたるので、観光案内としてはそれなりに役に立ってくれるかもしれない。るるぶにしては少々厚いが。タイトルも社会学の虚構を被らずに『古市が行く世界の戦争博物館』とかであれば、それなりに成立するものだっただろう。

 このような人物が日本の社会学の代表面していることに関しては、社会学者の皆様に深く同情申し上げる次第だが、心理学もいつこうなるかわからないし、案外既にそうなっている可能性もあるので楽観視はできない。本を出すということは一種の権威付けをすることにもなるので、出版社各位はくれぐれもいい加減なものに学問のラベルを張って出荷するような表示偽装はやめていただきたい。
posted by 新橋九段 at 22:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書狂の冒険 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月28日

【読書狂の冒険#035】梶山季之『せどり男爵数奇譚』筑摩書房

 土曜日更新のはずなのにすっかり忘れていて今に至る。
 テーマ『ビブリア古書堂』最後の1冊は、梶山季之の『せどり男爵数奇譚』。本に魅了され、本に人生を左右された人々を扱った本作は、このテーマの最後を飾るにふさわしいものだろう。

 本作は、せどり男爵こと笠井菊哉が出会った「古書に惹かれた人々」を中心に紹介していく短編集。一口に古書に惹かれたと言っても千差万別で、笠井のように古書を尋ねて3千里のような人物から、本のためには平気で盗みをやるクレプトマニア、挙句は本というより装丁にこだわり狂気に陥った男までいる。
 本作は、最初は結構マイルドに、それこそトイレのちり紙に珍しい古書を見つけて狂喜乱舞するただの変な人を紹介していたり、大学教授の未亡人が古書店を始めるときに必ずと言っていいほど陥る落とし穴の話をしていたりと、まあ普通の感じではある。
 しかし、後半につれて徐々に狂気性があからさまになっていく。特に最後のシナリオは頭おかしいの一言である。なにせ人の皮で本を装丁しようというのだから。今でこそ、クトゥルフ神話の影響からか人の皮で装丁された本という発想はさほど珍しくないのかもしれないが、本書の出版は2000年である。まあ、それでも人の皮で装丁された本というのは、発掘されることがなかったわけではないだろうが、それがつくられただろう経緯を小説で描き切ったのは素晴らしい。
 しかも、ただ人の皮で装丁されてましたというだけではなく、そこにさらに狂気性を足していくのが本作の魅力だ。人の皮というだけで十分な気もするが、著者はそうは思わなかったらしい。

 ビブリアシリーズでは、本書は直接はあまり登場しないが、ある重要人物の生きざまをそのまま表したような、その人物に直接つながるような役割を与えられている。人皮装丁は出てこないので安心してほしいが。
 思えば、栞子さんもそうだし、母親もそうだし、シリーズには古書に魅了され人生を左右された人々が多く登場する。大輔や彼が出会った人物たちもまたそうだ。ビブリアシリーズは現代におけるせどり男爵、というよりはただのバイトだけど、の数奇譚として描かれている。
 古書は人を繋ぐ、というのが栞子さんの持論だ。シリーズがただ本をテーマにした話ではなくて、古書をテーマにしている意味がここにある。
 著者によれば、シリーズはそろそろ完結を視野に入れているらしい。どのような結末になるかはわからないが、ストーリーが終わっても、あまり終わったという感覚はしないのだろうとは思う。彼らの物語は、古書が存在する限り続いていきそうな気がするからだ。
posted by 新橋九段 at 17:16| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書狂の冒険 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年08月13日

【読書狂の冒険#034】太宰治『人間失格』青空文庫

 今回は太宰治の名作。ビブリア本編でも太宰治は重要な位置を占めており、第1巻では彼の手による稀覯本が全てのきっかけとなるし、第6巻では太宰治の著作だけでストーリーが構成されている。
 その本編の中でも目を引くのが、栞子さんをはじめとする人々による「『人間失格』は名作か」論争。栞子さんは肯定的に、道中で出会う人々は否定的に作品を見ているようだ。

 思うに、この論争は現代にも生きているし、だからこそ本編で取り上げられたのだろう。そして、私はここでは否定派に組することになる。
 その理由は『Copy__writingと痛々しい青春の受容』で簡単に書いているが、一言で言えば、主人公である大庭葉蔵の生き方が「痛々しい」からだ。だいたい、『人間失格』というタイトルからして痛さがあふれ出している。
 痛々しいというのは、かなり重要な要素だ。というのも、痛々しいというのはそれだけで作品に対する拒絶反応を生みうる。あるいは、作品に対する拒絶反応の概ねを痛々しいと表現できる、そういう概念だからだ。例えば私なんかは、もうライトノベルを純粋に楽しめる体ではないが、その大きな理由がラノベの表現が痛々しいように感じられてしまうからだ。
 大庭葉蔵は本作で、何度も心中を繰り返しては自分だけ生き残り、薬をやり地下組織の手伝いをし、学業をさぼり画家を目指しては挫折する。人の心がわからない的な独白をため息交じりにしてしまうタイプの人間だ。今でいうところのメンヘラだろう。自分は人とは違うと勘違いしているタイプの人間だ。実際はこういうのは作品が書かれたころには一定数いたのだろうし、現代にもいる。すくなくとも、主人公と同じだと思いたがる人間は沢山いるし、だからこそこの作品は売れ続けるのだ。青空文庫で無料ダウンロード出来るにもかかわらず。

 しかし、痛々しいというだけが、私を否定派にしているわけではない。私は、大庭葉蔵にはこれでもかというくらい共感できないのだ。
 境遇が違いすぎるからではないだろう。夏目漱石『それから』の主人公とも境遇は違いすぎるが、その作品では十分共感できたのだから。原因はもっと別のところにあるのだろう。たぶん。
 この原因を探るのは今後の課題だが、候補の1つに文体があげられる。上でラノベの例を挙げたが、同じ設定でも電撃文庫ではなくハヤカワSFで出ていれば楽しめただろう作品は恐らく無数に存在する。今流行りの異界転生ものだって、似たような設定のものが古典的な作品の中にもあるだろう。
 ではなぜ、ラノベ及び太宰治の文体が気に入らないのかというと、やはり理由はさっぱりわからないのだが。これはもう、体育会系の空気が合わないとか、ウェイ系のテンションが不愉快というレベルなのかもしれない。

 ともあれ、誰かの名作が、それが世界的な名作であっても別の誰かの名作とは限らないということは肝に銘じておきたい。その本が偉大な文学賞を取ろうが、何百万部売れようが、その人にとって名作でなければあまり意味がない。逆もしかりだ。
posted by 新橋九段 at 21:00| Comment(1) | TrackBack(0) | 読書狂の冒険 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする