2016年10月22日

【読書狂の冒険#039】山野車輪『マンガ嫌韓流』ムック

 今までいろいろな意味で駄本と評価できる本を紹介したが、このテーマでこの本を紹介しなければ手落ちというものだろう。今やネトウヨのバイブルと言っても過言ではないのが本書である。ただただあらゆるうわさと想像力を駆使して韓国を悪し様に言うことに情熱を燃やした、もうその時点である種病的な本だ。漫画だから文字を追うのが苦しいネトウヨにも受け入れられた。ネトウヨのいうデマの大半の出典がここだと言ってもいいだろう。

 私がこの本に出会ったのは高校生の頃。最寄り駅の入っていた建物には書店も入っており、そこに本書が並べられていたのである。高校生の私には本書の内容が正しいかどうか判断することが出来なかったが、なんとなく嫌な感じがして本書の内容を信じることはなかった。今では、その直感を持てた幸運に感謝している。
 本書に感じた嫌なものの原因は、韓国人をありとあらゆる面で罵ろうという異様な情熱が表現に溢れていることだった。例えば、何かの理由で(思い出せないし読み返す気もないが)日本人と韓国人が議論する展開があったのだが、その時作者は論敵である韓国人を非理論的かつ感情的な人物として書いている。ディベートだったので両陣営とも複数人いたのだが、その韓国人サイドの全員をそのように描いていたのだ。一方のイデオロギーに固執し、全体像が見えなくなっている作者がよくやる手法である。自分のサイドを頭よさげに描けないから、相手を貶めて相対的に自分を上げようとしているのだが、結局のところ自分サイドのレベルが上がっているわけではないので作者の地力が露呈するだけだったりする。本書に出てくる韓国人は皆エラがはって目が細いという、韓国人ステレオタイプを反映した外見をしているのだが、これも作者の現実認識能力が低いことを自ら開陳しているに過ぎない。
 さほど利口そうに見えない日本人サイドの男子高校生が、ズバズバと韓国人を「論破」していくという今どきのラノベめいた構造も、今思えば示唆的だった。

 本書が出始めたころに、既にネトウヨは存在していたが、そのころはまだ「荒らし」と同じようなカテゴリであり、馬鹿で迷惑な奴といった認識だった。このような本も、政治関連の棚に置かれてはいたものの「芸能界の真実!」みたいな与太本と同じような扱いだったと思う。
 しかしあれから年月が経ち、状況は変わってしまった。今やネットを多用する人々はネトウヨ的な思想、認識を多かれ少なかれ受け入れていない方が珍しいといった感じですらあるし、オタクと呼ばれる人々はほぼイコールでネトウヨになってしまったと言ってもいい。本書のような、本来与太本であるはずの本が今や政治関連の棚に「現代ビジネスマンの教養でござい」といった面構えで並び、落ち目のジャーナリスト、評論家気取りが食い扶持を稼げる程度には市場が拡大してしまった。
 それが日本人の本性の発露であるのか、本書のようなものを放置した結果の増大なのかはさておくにせよ、本書が日本社会に落とした影は今まで取り上げた本の比較にならない。本書を駄本と評するのは、問題の矮小化だともいえるのかもしれない。
 本書のようなヘイト本に対して、ようやく出版社も真面目に考えるようになってきた。本書のような表現が表現の自由の範疇であるとはとても思えないが、しかし憲法がそれを保障している以上、最終的には作者、出版社、書店、そして読者の良心によってこのような本を防ぐしかないのだろう。
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2016年10月08日

【読書狂の冒険#038】適菜収『日本をダメにしたB層の研究』講談社

 日本をダメにしたのはどっちだ?というわけで今回取り上げるのは、どこの馬の骨かわからない、自称哲学者の著者の1冊。
 本書は、日本を「B層」がなぜ、どうしてダメにしたのかを述べるいう、この時点ですでに中身がなさそうな本だ。B層って何だよと思った人は、ぜひそのセンスを忘れずにこれからの人生を歩んでほしい。著者曰く、電通のマーケティング資料にあった分類で、低IQかつ小泉政権の構造改革に賛同するような人々のことを指すらしい。
 かなりふわっとした定義だが、後述するようにこのふわっと加減が実は重要なのだ。そもそも電通のマーケティング資料云々の時点で老舗洋食屋のオムライス並みにふわっとしているが。

 結論から言うと、本書はB層なる人々をこきおろしているものの、読者としてのメインターゲットもB層という奇妙にねじ曲がった構造を持った本になっている。というか、本書を読むにつれB層なる人々をバカにしている著者の思考形態こそが、このB層に当てはまっちゃうんじゃないか、ようするにただの同族嫌悪か投影かだろうという疑いまで首をもたげてくる。
 なぜ本書はB層を馬鹿にしつつその手法が「B層」的なのだろうか。それは本書の批判形態という言うのが簡単に言えば「誰かをふわっとした理由で馬鹿呼ばわりする」という手法だからだ。いかにも低IQでよくわからないけどセンセーショナルなものを支持してしまい人々の手法と言える。
 「ふわっとした理由で馬鹿にする」の最たる例が、民主党の某議員を馬鹿にするくだりである。著者は、なんと議員を馬鹿にするのに骨相学を持ち出し始めたのだ。議員なんだから、掘ればいくらでも馬鹿にできそうな材料はあるだろうに、なぜそこで骨相学なのだろうか。さっぱり意味がわからないし、それで人を馬鹿にできると思っているのであれば「バカという奴がバカ」という往年の慣用句をプレゼントするしかなくなる。

 ところで、なぜ本書はB層を馬鹿にしつつB層をターゲットにするという器用なことができるのだろうか。それは、前述のようにB層の定義がふわっとしていることに秘密がある。
 B層の定義は「低IQ」かつ「構造改革を支持している」だった。さて、ここで質問。あなたは構造改革を支持していましたか?もう結構昔の話なので、大半の人は覚えていないと思う。仮に覚えていたとしても「構造改革のあれは支持してたけどこれは支持していなかった」というパターンもあるだろうし、結果が芳しくないことを知ってから後付けで「いやーあれはダメだと思ってたんだけどねー」というパターンもある。ようするに、構造改革への賛否という定義は、一見客観的に見えて案外どうにでもなるいい加減な定義でしかないということだ。
 低IQというのはどうだろう。これは、低学歴ではないところがポイントだ。IQというのは確かに客観的な基準だが、自分のIQがどれくらいかきちんと知っている人はほとんどいないと言っていい。
 自分が低学歴かどうかは割とはっきりわかってしまう基準である。どこの馬の骨かわからない私大卒ならまだしも、高卒の人間が実は高学歴なんだと強弁するのは流石に苦しい。しかしIQはほとんどの人が知らないうえに、理論上は学歴とかみ合わない場合も当然あるから、例えば高卒の人が実は俺は高IQなんだと思い込むことは容易い。
 この2つの、実は当てはまっているけど当てはまっていないと思い込める基準が存在することによって、定義上B層に当てはまるが自分ではB層だと思っていない人が生れる。しかも2つのうち1つでそう思い込めれば十分であるため、B層じゃないと思い込んでいる人の数は甚大になる。だからこそ、B層をこき下ろす本をB層が喜んで読むという喜劇みたいな状況が成立するのである。

 本書はただ中身がないだけなので、このご時世になんて紙の無駄遣いなんだという点を除けば無益なだけである。ただ、本書が現代では当たり前になってしまった、むしろいい加減なライターの生き残り戦略として推奨すらされているのではないかと疑わしくなる「大きな声でとりあえず相手を馬鹿呼ばわりしておく」手法の先鞭をつけたのか、あるいはそのような手法がはびこる前兆だったのは確かだろう。
 B層なお歴々は、そんなしょうもない戦略に引っかかるのはB層だけだとトートロジカルな切断処理をして安心できる面の皮をお持ちなのだろうが、人間が一般的に愚かであることを普通程度には知っている私はそのような安易な切断処理をすることもできないのがなんとも理不尽な気はする。
posted by 新橋九段 at 21:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書狂の冒険 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年10月01日

【読書狂の冒険#037】百田尚樹『風の中のマリア』講談社

 バタバタもここに極まり、ついに結構投稿予定をぶっちぎってしまったので、思い切って1週間遅らせることにした。
 ともあれ、今回は百田尚樹『風の中のマリア』。何かと舌禍事件で世間を騒がせる著者だが、本書はそれとは違う意味で酷いものだった。
 本書は蜂が主人公のお話。働き蜂のマリアが幼虫のためにせっせと狩りをしたりして生存競争に励む、アイデアだけは面白そうな1冊になっている。

 なぜ私がここまで酷評しているかというと、ひとえにマリアやほかの昆虫たちの心情描写や内面描写がとてつもなく酷いもので、全くと言っていいほど共感できないものになっているからだ。
 本書の終盤、女王蜂の衰弱に伴い働き蜂たちが相談事をする。このまま女王蜂を放っておいていいのか。いっそ殺してしまって、働き蜂たちが新しい女王蜂になることに賭けた方がいいのではないかという話だ。今まで一生懸命仕えてきた女王、マリアにとっては母親でもある女王の処遇のことだ。マリアの葛藤は計り知れない……はずだった。
 しかしここで、著者は何を思ったのか、わけのわからない話をマリアたちにさせ始める。曰く、ゲノムがどうとか、遺伝子がどうとか。つまり、マリアたちはこのまま巣が衰退するのを放置するよりは、女王の遺伝子を半分受け継ぐ自分たちが旅たち新たな巣を作った方が結果的に女王の遺伝子を多く残せると結論するのだ。
 これはどう考えてもおかしい。人間と蜂の思考形態は一緒ではないが、行動するときにゲノムが云々などと考えないことは共通しているだろう。その前に、蜂の知能と科学技術ではゲノムという概念を理解できるかも怪しい。にもかかわらず、マリアたちはさも当然のようにこの概念を操っている。これは生物学的に驚愕の事実である。ここまで知能の高い蜂がいたとは。
 そもそも中盤で、マリアがあるクモと会話している時に、クモが自分自身でこの種類のクモにはこれこれこういう習性があって〜などと説明しているが、そんな奴もまずいない。なぜこのクモは生物学者みたいな目線でしゃべっているのだろうか。
 このような不可解な描写のせいで、まったくマリアたちに共感も感情移入もできないのが本作だ。さすがにもうちょっと何とかなっただろうと言わざるを得ない。

 昔、本書が有名になったころTVで著者が、番組を作る中で得た知識を作品に生かしたという話をしていたと記憶しているが、それが正しければ本書ではその知識は単なるうんちく披露にしか役立たなかったように思える。例えば、蜜蜂がスズメバチを殺すために、スズメバチに密集して温度を上げる行動をとることは有名だが、それに初めて直面したスズメバチであるマリアからは全くそのことに関して恐怖とか驚きが感じられない。

 加えて、本書は著者が保守論壇で活躍するようになる以前に書かれたものだが、既に著者の、というか保守論壇にありがちな「個よりも全」的な考え方というものがちらほら出ている。巣のために身を粉ににして働くマリアなどはその思想の典型的な表出だろう。それはまあいいのだが、結局マリアが働く理由がゲノム云々では彼女の苦労の意味がさっぱりわからない。
 よく作品と著者は切り分けて考えるべきだなどという人がいるが、私はそうは思わない。第一、その人を知ってしまえば作品への評価に多かれ少なかれ影響することは避けられない。できないことをするべきだといったところで何の意味もないだろう。

 本書は、ただつまらないだけという意味では今回のテーマで取り上げられた本の中では一番ましなものである。ただ、後続の作品の出来を見る限り、本書が不幸にも著者のベストセラー作家としての地位を確立してしまったのであれば、文学にとっては最悪の1冊なのかもしれない。
posted by 新橋九段 at 21:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書狂の冒険 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする