2016年12月09日

【真田丸から抜き取る創作ヒントその1】徹底と例外 リフレイン

 もうすぐ終わりますね、真田丸。これほど熱心に見た大河は『平清盛』以来です。もっとも、清盛と真田丸では面白さのベクトルが違うので、比べる気にはなりません。「蜜柑とステーキ、どっちがおいしい?」みたいな話だと思います。
 さて、流石日本を代表する脚本家三谷幸喜。物語の構造として感心感嘆させられることばかりです。三谷作品は過去に『ステキな金縛り』や『清須会議』を見たことがあるのですが、真田丸ほど長期の作品を、しかもがっつりとみた経験はないので、三谷幸喜の脚本家としての実力をまざまざと見せつけられたのは、初めての経験だったと言っても過言ではないでしょう。
 そこで、覚書程度のいい加減なものですが、私が今後何らかの作品を作るうえでヒントになりそうなことを、真田丸から抜き出して書いておこうと思い立ち、記事を立ち上げました。最近書評以外の記事がさっぱりでしたし、ドラマの記憶が鮮明なうちに、やっておこうと思います。
 一応、第48回までの真田丸放送分のネタバレに注意してください。

 徹底の力
 第1回は、徹底と例外、リフレインと銘打ちました。まずは徹底です。
 この力をはっきりと実感することになったのは、第44回『築城』です。いつも真田丸はアバンなしで、OPをいきなり流し、前回までのあらすじを有働アナのナレーションで流すという手法をとっていました。しかしその回では、OPもすっ飛ばしてナレーションが入り、ドラマが始まりました。そして番組最後、ついに真田丸が完成した時の高梨内記と幸村の会話「城の名はなんとします?」「決まっておるだろう、真田丸よ」からでかでかとタイトルの表示されるOPが始まるという演出に視聴者は釘付けとなりました。
 まず、アバンなしのOP入りという徹底した演出で視聴者を慣れさせ、これをここぞというタイミングで崩しました。この時視聴者は、あれ?どうしたんだろうという疑問と共に画面に食いつかされることになります。もしこれが、このOP入りの徹底を破り、何回かアバンありの回を設けていたとしたら、ここまでの効果は生まれなかったでしょう。演出としては、ただアバンをなくしただけでしたが、これを44回も繰り返した後に1度だけ崩したために、強力なエネルギーが生れることとなりました。

 また真田丸には、回想が1回の例外を除き全くありません。故に、大河にありがちなスタッフロールである「豊臣秀吉(回想)」みたいな表記も出てきませんでした。
 その1回の例外というのが、信繁が九度山から大阪へ行くことを決意する第40回『幸村』でした。きりに背中を押された信繁が思い出す形で、自分にかけられてきた言葉を回想していきます。そこで初めて、過去の映像を使うという意味での回想が行われるのです。
 ここも、普段から回想を多用していればただの回想シーンの1つとして片づけられてしまっていたでしょう。しかし、今まで1度も使わず、この回で初めて使うという手法をとったために、印象的なシーンに仕上がりました。

 徹底の力を言い換えると、一貫したテーマや登場人物の行動ということにもなるのですが、それは別に項を設けて書くことにします。

 リフレイン
 印象的な演出を繰り返すというのも、単純ながら効果的な力を発揮する表現でしょう。代表的なのが、第45回『完封』で、幸村の息子大介が舞った高砂です。これは言うまでもなく、第13回『風雲』で幸村自身が舞ったことの繰り返しです。もしこれが、前者のみあるいは後者のみであればなんてことはない演出ですが、親子2代にわたってリフレインすることで世代交代も少し印象付けるシーンになりました。
 また前述の回想回において、鈴の音がなっていたのもリフレインの1つです。この鈴は年老いた秀吉に何かあった時に、すぐに傍の者を呼ぶことができるように信繁が用意したものです。この鈴が回想の間鳴り響くことで、大阪に呼ばれているということを視聴者に深く印象付けました。
 リフレインと言っても、ただ繰り返すだけでは面白味がありません。少しだけ変えて再び提示することで、2つのシーンにおける相似と相違を強調することにこそ、意味があるのでしょう。
posted by 新橋九段 at 01:06| Comment(0) | TrackBack(0) | 創作資料 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年12月05日

【読書狂の冒険#044】伊藤和幸/F.E.A.R『ダブルクロス The 3rd Edition リプレイジェネシス@ 放課後のアルテミス』富士見書房

 遅れて飛び出てじゃじゃじゃじゃん。今月からのテーマはダブルクロスリプレイ。カクヨムへの投稿といい単にダブルクロスにはまっているだけじゃないのと言われれば返す言葉もないが、私のブログなので好き勝手やらせてもらう。
 しかしさすがに、ダブルクロスって何だという説明抜きに話を始めるのは、TRPGに明るくない読者に不案内にもほどがあるので、説明させていただきたい。ダブルクロスというのは、電源なしでRPGを楽しむゲームの形態であるTRPGの1作品である。PLたちは現代社会に生きる超能力者「オーヴァード」になり、邪悪な敵である「ジャーム」に打ち勝つことを目的とし、協力して戦うのである。本作のポイントが、「オーヴァードの存在は一般人には秘匿されている」ことと「オーヴァードは暴走するとジャームになる」ことだろう。つまり、オーヴァードとなったPLは、そのことを知らない一般人である友人といった大切な人たちに、そのことを明かさぬよう孤独に戦わなければならないし、自分も敵と同じ存在になる恐怖を乗り越えなければならない。

 で、本作はDXの第3判、現在一般にプレイされているルールブックの発売以降初めて発表されたリプレイになる。コンセプトは「経験者と初心者が一緒に楽しめるシナリオ」だそうで、実際にPC2はOPではオーヴァードに覚醒していないという設定になっている。
 あらすじとしては、一般人の女子高校である敷島あやめが、ある日ジャームに襲われオーヴァードに覚醒したことに端を発する物語と言ったところだろう。ジャームと戦う組織であるUGNの基本設定、セッションの進め方などの基礎もきちんと説明してくれているので、まさに初心者向けと言ったところだろう。
 ダブルクロスのセッションに登場するPCというのは、本作の敷島あやめのように「セッションのOPで覚醒すると」いう指定が無ければ、大半の場合セッション以前にオーヴァードとなっているものである。それは、そのままPCたちが既に非日常の世界に親しみ、ジャームとの戦いに何ら疑問を抱かずに加わり、そして躊躇いなくぶっ殺すことを意味している。無論PC個人の設定としては、過去にそのことへの葛藤もあっただろうし、セッションをしている最中にもしているかもしれないが、スムーズにシナリオを進める都合上、ハンドアウトで求められない限りはそのような葛藤が表に出ることはない。
 だからこそ、多くのPLにとって敷島あやめのような「覚醒したてのオーヴァード」は、読者という立場でもPLという立場でも魅力的に見えるのだろう。日常から非日常への移行、そこに現れる戸惑いやためらいといった、その役割特有の要素を演じることができる機会というのは、そうそうあるものではない。

 それと、これは本作に限った話ではないのだが、セッションはやはりキャンペーンに限るかもしれないというのが私の持論である。日程が合わせやすく、シナリオも調達しやすい単発セッションも十分楽しいのだが、キャンペーンにはその困難に見合った楽しみがあると思う。
 その最大のものは、自分のキャラクターが他人のキャラクターと交流し、自分1人では見つけられなかった側面が明らかになったり、予想の出来ない方向へ流れていったり、今までの積み重ねがRPに反映されたりといったものだと思う。要するに、自分1人ではできないことが、みんなでやればできるということに尽きるのだろう。しかしそれは、単発のセッションでは時間が少し物足りない。3話4話と積み重ねるからこそ得られるものもあるのだ。
 本作のような文庫本1冊分の物語を1人で書こうとするのは大変な困難だ。しかも、書き上げたところでその世界を共有してくれる読者が現れるとは限らない(読んでくれても、反応が返ってこないとあまり共有したという気にはならないだろう)。しかし、セッションであれば1人で書き上げるよりは容易く、それだけの厚みを持った物語を作り上げることができるし、出来上がった時には既にその世界を共有してくれる人々がいるのだ。

 本作はその後、調べた限りでは4巻まで出るようなのだが、手元には1巻しかないので、その後の彼らの物語はわからずじまいである。案外本屋に売ってないし、この手のリプレイは結構ブックオフとかに並んでたりもするのだが、見たことはない(アリアンロッドの方が多い印象)。
 しかしまあ、物足りなければその先は自分で作り上げることができるのがTRPGのいいところだろう。
posted by 新橋九段 at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書狂の冒険 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月27日

【読書狂の冒険#043】入間人間『電波女と青春男』アスキーメディアワークス

 テーマ「ライトノベル」の最後を飾るのは入間人間の『電波女と青春男』。この作品は私のラノベ経験には珍しく(?)全部読んだし、全部買ったシリーズである。私がラノベを読むときは大抵借りものだし、しかも最終巻まで読んでないことが多いこと多いこと。

 本作を今の時代の語彙で敢えて表現するとすれば、ハーレムものに近いのだろうか。主人公の丹羽真が居候先で出会った従妹の藤和エリオや高校の友人たちとわちゃわちゃやる内容に終始している。青春小説と表現したほうが的確だろうか。どちらにせよ、流行のハーレムものに比べてヒロインとの関係その他に関する、お約束とも言える無糖滑稽さが薄いので、かえって読者の受けるいろいろなダメージが大きい作品でもある。高校生のとき読んだら青春観があらぬ方向(一般的なオタクとはずれた方向)に捻じ曲がるし、二十歳を過ぎた身の上では耐えられる気がしない。流石タイトルに「青春男」を関するだけあって、青春描写が爽やかで辛い。

 本作のもう1つの特徴は、青春ポイントというシステムにある。これは主人公の極めて主観的な基準によって加算される、「青春っぽさ」を点数化したシステムである。要するに主人公が青春を感じれば増加していき、それとは反対に青春を感じなかったり隕石に体を削られたりすれば減るという、その場のノリを体現した仕組みである。
 ライトノベルが直面する問題の1つに「平凡な主人公」問題というものがあると、私は勝手に思っている。つまり、「流石ですわお兄様」でない限り、読者の感情移入先になりやすい主人公にできるだけ突出した特徴を与えたくないというのが作者の思惑となる場合が多いのだが、一方で本当に平々凡々ではお話にならないのでなんらかの突出した特徴を結局は、ことによっては作者すら気がつかぬうちに与えることになる。すると、作品の最初の方で「俺はどこにでもいる平凡な高校生」と言ってたくせに全然違うじゃないかという事態が起こる。これは主人公の描き方によってかなり嫌味に見えてしまうし、折角の感情移入先に反感を抱かれたのではその先を読んでもらえなくなってしまう。
 その点、本作は「青春ポイント」を主人公が逐一考えているという設定で、この問題をうまい具合に回避しているようにも見える。丹羽真は確かにこれといった特徴のない、「平凡な主人公」ではあるが、青春ポイントという要素が入った瞬間に「ちょっとだけ変な奴」になる。しかもその変な感じが、いかにも変人という印象を与えようとしているのではなく、実に淡々と本人の中で行われているのが、「ちょっとだけ」に拍車をかけている。その結果、周囲にエリオを始めとする変な人々が集まってきても「ああ、類が友を呼んだんだな」としか認識できなくなり、嫌味みたいなものも薄まる。不思議と、彼の青春ポイントが削られると彼のおかれている境遇があまり羨ましくない気がしてくるのだ。
 とは言っても、やっぱり羨ましい気もするのだが。

 本作の前に出版されていた、作者の作品が如何にもおかしい奴と如何にもおかしい奴のラブストーリーだったせいもあって、本作はうまくラブもヘイトも薄めた作品に感じた。いうなれば、前作でカルピスの原液を飲まされていたのが、今回はカルピスソーダだったみたいな話だと思う。まあ、私は炭酸苦手なんだけども。

 そういうことを適当に(この記事はいかにもわかったふうな書評っぽく書いているが、そんなことはない)考えていると、この年になってラノベが読めなくなったのは、最近ケーキ一切れがしんどくなってきたとか、昔より焼き肉が食べれなくなったみたいな話なのかなぁとも思えてきた。
 もっとも、周囲を見てみると年齢が上がっても相変わらずラノベ万歳な人間も結構いるのも事実だ。うん、まだ彼我の差の理由はよくわからない。
posted by 新橋九段 at 21:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書狂の冒険 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする