2016年10月08日

【読書狂の冒険#038】適菜収『日本をダメにしたB層の研究』講談社

 日本をダメにしたのはどっちだ?というわけで今回取り上げるのは、どこの馬の骨かわからない、自称哲学者の著者の1冊。
 本書は、日本を「B層」がなぜ、どうしてダメにしたのかを述べるいう、この時点ですでに中身がなさそうな本だ。B層って何だよと思った人は、ぜひそのセンスを忘れずにこれからの人生を歩んでほしい。著者曰く、電通のマーケティング資料にあった分類で、低IQかつ小泉政権の構造改革に賛同するような人々のことを指すらしい。
 かなりふわっとした定義だが、後述するようにこのふわっと加減が実は重要なのだ。そもそも電通のマーケティング資料云々の時点で老舗洋食屋のオムライス並みにふわっとしているが。

 結論から言うと、本書はB層なる人々をこきおろしているものの、読者としてのメインターゲットもB層という奇妙にねじ曲がった構造を持った本になっている。というか、本書を読むにつれB層なる人々をバカにしている著者の思考形態こそが、このB層に当てはまっちゃうんじゃないか、ようするにただの同族嫌悪か投影かだろうという疑いまで首をもたげてくる。
 なぜ本書はB層を馬鹿にしつつその手法が「B層」的なのだろうか。それは本書の批判形態という言うのが簡単に言えば「誰かをふわっとした理由で馬鹿呼ばわりする」という手法だからだ。いかにも低IQでよくわからないけどセンセーショナルなものを支持してしまい人々の手法と言える。
 「ふわっとした理由で馬鹿にする」の最たる例が、民主党の某議員を馬鹿にするくだりである。著者は、なんと議員を馬鹿にするのに骨相学を持ち出し始めたのだ。議員なんだから、掘ればいくらでも馬鹿にできそうな材料はあるだろうに、なぜそこで骨相学なのだろうか。さっぱり意味がわからないし、それで人を馬鹿にできると思っているのであれば「バカという奴がバカ」という往年の慣用句をプレゼントするしかなくなる。

 ところで、なぜ本書はB層を馬鹿にしつつB層をターゲットにするという器用なことができるのだろうか。それは、前述のようにB層の定義がふわっとしていることに秘密がある。
 B層の定義は「低IQ」かつ「構造改革を支持している」だった。さて、ここで質問。あなたは構造改革を支持していましたか?もう結構昔の話なので、大半の人は覚えていないと思う。仮に覚えていたとしても「構造改革のあれは支持してたけどこれは支持していなかった」というパターンもあるだろうし、結果が芳しくないことを知ってから後付けで「いやーあれはダメだと思ってたんだけどねー」というパターンもある。ようするに、構造改革への賛否という定義は、一見客観的に見えて案外どうにでもなるいい加減な定義でしかないということだ。
 低IQというのはどうだろう。これは、低学歴ではないところがポイントだ。IQというのは確かに客観的な基準だが、自分のIQがどれくらいかきちんと知っている人はほとんどいないと言っていい。
 自分が低学歴かどうかは割とはっきりわかってしまう基準である。どこの馬の骨かわからない私大卒ならまだしも、高卒の人間が実は高学歴なんだと強弁するのは流石に苦しい。しかしIQはほとんどの人が知らないうえに、理論上は学歴とかみ合わない場合も当然あるから、例えば高卒の人が実は俺は高IQなんだと思い込むことは容易い。
 この2つの、実は当てはまっているけど当てはまっていないと思い込める基準が存在することによって、定義上B層に当てはまるが自分ではB層だと思っていない人が生れる。しかも2つのうち1つでそう思い込めれば十分であるため、B層じゃないと思い込んでいる人の数は甚大になる。だからこそ、B層をこき下ろす本をB層が喜んで読むという喜劇みたいな状況が成立するのである。

 本書はただ中身がないだけなので、このご時世になんて紙の無駄遣いなんだという点を除けば無益なだけである。ただ、本書が現代では当たり前になってしまった、むしろいい加減なライターの生き残り戦略として推奨すらされているのではないかと疑わしくなる「大きな声でとりあえず相手を馬鹿呼ばわりしておく」手法の先鞭をつけたのか、あるいはそのような手法がはびこる前兆だったのは確かだろう。
 B層なお歴々は、そんなしょうもない戦略に引っかかるのはB層だけだとトートロジカルな切断処理をして安心できる面の皮をお持ちなのだろうが、人間が一般的に愚かであることを普通程度には知っている私はそのような安易な切断処理をすることもできないのがなんとも理不尽な気はする。
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2016年10月01日

【読書狂の冒険#037】百田尚樹『風の中のマリア』講談社

 バタバタもここに極まり、ついに結構投稿予定をぶっちぎってしまったので、思い切って1週間遅らせることにした。
 ともあれ、今回は百田尚樹『風の中のマリア』。何かと舌禍事件で世間を騒がせる著者だが、本書はそれとは違う意味で酷いものだった。
 本書は蜂が主人公のお話。働き蜂のマリアが幼虫のためにせっせと狩りをしたりして生存競争に励む、アイデアだけは面白そうな1冊になっている。

 なぜ私がここまで酷評しているかというと、ひとえにマリアやほかの昆虫たちの心情描写や内面描写がとてつもなく酷いもので、全くと言っていいほど共感できないものになっているからだ。
 本書の終盤、女王蜂の衰弱に伴い働き蜂たちが相談事をする。このまま女王蜂を放っておいていいのか。いっそ殺してしまって、働き蜂たちが新しい女王蜂になることに賭けた方がいいのではないかという話だ。今まで一生懸命仕えてきた女王、マリアにとっては母親でもある女王の処遇のことだ。マリアの葛藤は計り知れない……はずだった。
 しかしここで、著者は何を思ったのか、わけのわからない話をマリアたちにさせ始める。曰く、ゲノムがどうとか、遺伝子がどうとか。つまり、マリアたちはこのまま巣が衰退するのを放置するよりは、女王の遺伝子を半分受け継ぐ自分たちが旅たち新たな巣を作った方が結果的に女王の遺伝子を多く残せると結論するのだ。
 これはどう考えてもおかしい。人間と蜂の思考形態は一緒ではないが、行動するときにゲノムが云々などと考えないことは共通しているだろう。その前に、蜂の知能と科学技術ではゲノムという概念を理解できるかも怪しい。にもかかわらず、マリアたちはさも当然のようにこの概念を操っている。これは生物学的に驚愕の事実である。ここまで知能の高い蜂がいたとは。
 そもそも中盤で、マリアがあるクモと会話している時に、クモが自分自身でこの種類のクモにはこれこれこういう習性があって〜などと説明しているが、そんな奴もまずいない。なぜこのクモは生物学者みたいな目線でしゃべっているのだろうか。
 このような不可解な描写のせいで、まったくマリアたちに共感も感情移入もできないのが本作だ。さすがにもうちょっと何とかなっただろうと言わざるを得ない。

 昔、本書が有名になったころTVで著者が、番組を作る中で得た知識を作品に生かしたという話をしていたと記憶しているが、それが正しければ本書ではその知識は単なるうんちく披露にしか役立たなかったように思える。例えば、蜜蜂がスズメバチを殺すために、スズメバチに密集して温度を上げる行動をとることは有名だが、それに初めて直面したスズメバチであるマリアからは全くそのことに関して恐怖とか驚きが感じられない。

 加えて、本書は著者が保守論壇で活躍するようになる以前に書かれたものだが、既に著者の、というか保守論壇にありがちな「個よりも全」的な考え方というものがちらほら出ている。巣のために身を粉ににして働くマリアなどはその思想の典型的な表出だろう。それはまあいいのだが、結局マリアが働く理由がゲノム云々では彼女の苦労の意味がさっぱりわからない。
 よく作品と著者は切り分けて考えるべきだなどという人がいるが、私はそうは思わない。第一、その人を知ってしまえば作品への評価に多かれ少なかれ影響することは避けられない。できないことをするべきだといったところで何の意味もないだろう。

 本書は、ただつまらないだけという意味では今回のテーマで取り上げられた本の中では一番ましなものである。ただ、後続の作品の出来を見る限り、本書が不幸にも著者のベストセラー作家としての地位を確立してしまったのであれば、文学にとっては最悪の1冊なのかもしれない。
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2016年09月10日

【読書狂の冒険#036】古市憲寿『誰も戦争を教えてくれなかった』講談社

 また遅刻してしまった。最近忙しいから仕方ないと思おう。
 今月からのテーマは「駄本を読む」。冒険が常に成功するとは限らないように、本との出会いは常にいいものとは限らない。期待して読んだ本が大したことなかったり、適当にめくったページにとんでもないことが書いてあったりというのは日常茶飯事である。特に、低迷しているとは空前の出版ブームの昨今にあっては、出版社の気まぐれで出したとしか思えないわけの分からない本が星の数ほどある。
 もっとも、今回取り上げる本の大半は、ダメなものだとわかっていて手を出したものだったりする。怖いもの見たさというか、その土地のゲテモノをあえて食べてみるのも醍醐味だと思うし、そうすることでより一層傑作のありがたさが身に染みるというものだ。
 というわけで、今月のテーマではダメな本を散々にこきおろしていくとする。

 さて、今回取り上げるのは古市憲寿『誰も戦争を教えてくれなかった』。当人は社会学者を名乗っているが、学者の定義をその専門分野で碌を食んでいることだとするならば、彼は社会学者ではない。ここから既にダメな匂いがぷんぷんする。
 彼は若者代表としてメディアに取り上げられることが多いが、既に30を超えている。全然若くない。そして、博士課程後期に入って3年経っても博士号の取れないオーバードクターである。数年ならまだしももう10年近く博士課程に在籍しっぱなしなので、研究者としては落ちこぼれもいいところだろうが、本の裏表紙にはこんな情報は載らないので気にしていないのだろう。
 とにかく、社会学者であるかすら極めて怪しい著者が、頭の中の想像と気楽な観光旅行で書き上げた本が、本書であるというのが今回の記事の結論である。

 本書のきっかけとなる問題提起は、若者が戦争を知らないというものである。著者は、ここで原爆投下の日付(終戦のだったか?)を問う問題の正答率が高くないことをその根拠にしている。
 言うまでもなく、日付を答えられることと戦争を知っていることには大きな開きがある。特に最近の若者は、学校での平和教育で戦争時のエピソードを嫌というほど聞かされているので、日付は記憶になくともそのようなことは記憶にある人は少なくないだろう。本書の根幹をなす主張の構築がこのレベルである時点で、著者の研究者としての能力の限界が知れるというものである。
 念のために指摘しておくが、社会学全体のレベルがこのようなお粗末なものだというわけでは断じてない。私は大学で平和教育に関する社会学の調査を受けたことがあるが、どのような教育を受けたのかわりと事細かに聞かれたし、日付は聞かれなかった。

 そこから先の記述は、社会学のものというよりはただの観光日記とも言うべきものだった。著者はいろいろと戦争博物館を訪れ、旅先で見て感じたのだろうが、その考察が「ここではこんな展示をしてるんだなぁ」というレベルだし、そもそも最初の問いである「若者が戦争を知らない」ことと戦争博物館がどのような関係があるのか繋がりが見えてこない。とてもではないが、社会学の名に耐えうる文章ではない。
 ただ、訪れている戦争博物館は国内外の多岐にわたるので、観光案内としてはそれなりに役に立ってくれるかもしれない。るるぶにしては少々厚いが。タイトルも社会学の虚構を被らずに『古市が行く世界の戦争博物館』とかであれば、それなりに成立するものだっただろう。

 このような人物が日本の社会学の代表面していることに関しては、社会学者の皆様に深く同情申し上げる次第だが、心理学もいつこうなるかわからないし、案外既にそうなっている可能性もあるので楽観視はできない。本を出すということは一種の権威付けをすることにもなるので、出版社各位はくれぐれもいい加減なものに学問のラベルを張って出荷するような表示偽装はやめていただきたい。
posted by 新橋九段 at 22:25| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書狂の冒険 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする