2016年11月13日

【読書狂の冒険#041】成田良悟『バッカーノ! 1931 鈍行編 The Grand Punk Railroad』アスキーメディアワークス

 今はもう、学校の図書館にライトノベルが置いてあるのは珍しくないらしい。私の時代には、全くなかったわけではないけれど珍しいものであったことは確かだ。時代に応じて、ジャンルの評価も変わってくるということだろう。図書館なんだからもっと「ちゃんとした」本を勧めればいいのにと思う一方、どんな形であれ来てもらわないと意味がないというのも事実なわけで、なかなか悩ましいことだろう。

 今回取り上げる『バッカーノ!』シリーズは、私の時代に図書館にあった数少ないライトノベルである。図書館に置くラノベとしては、まあ妥当なラインではないだろうか。
 本作は錬金術師によって作成された酒を飲み不老不死の存在である「不死者」になった人々(主にアメリカのギャング)を中心に展開される物語だ。主人公の一人称視点が多い他のライトノベルとは一線を画し、群像劇の様相を呈している。大量のキャラクターを決して埋もれさせることなく魅力的に活用し、かつ話もしっかり展開し収束させていく筆者の手腕は見事だ。
 本来ならばシリーズの第1巻をタイトルに持ってくるべきなのだが、何故か学校の図書館には第1巻がなく、私が初めて読んだのがこれだったのでそれにちなむことにした。1931はタイトル通り1931年が舞台であり、大陸横断鉄道に乗り込んだ不死者たちと、意味不明な暴力集団にテロリスト、さらに謎の殺人鬼の殺し合いと化かし合いを描いている。

 本作、というか成田良悟作品の魅力は、先にもちらりと書いたが群像劇のうまさである。キャラクター過多というのも今のライトノベルの特徴かもしれないが、成田はそれがラノベの主流になる前にやり出し(このころはまだ、閉じられた人間関係の方がラノベのメインだった気がする)、しかも今から見ても過多にもほどがあるほどの登場人物を出して、挙句ストーリーはきっちり回すのがすごいところだ。私が編集者ならまず間違いなく「登場人物を減らすかもっと段階的に出せ」と修正する。その辺の匙加減は、編集者の功というべきなのかもしれない。
 舞台が現代日本でもなければどこかの異世界でもないというのも、珍しいことではある。『キノの旅』を選んでおいてなんだが、舞台が現代日本ではないというのは当時でも珍しかったはずだ。今ならもっと珍しいのかもしれない。少なくとも舞台が昔のアメリカという例は、私はこの作品くらいしか思いつかない。ジョジョが読者を獲得するために主人公の日本の高校生にしたみたいな話はよく聞くが、読者が想像しやすい日本でもなく、思い切り吹き飛ばした異世界でもないという判断もなかなか思い切ったものだと思う。
 ただ本作もライトノベルの常道から外れていない部分がある。キャラクターを中心とした物語、一種のキャラ小説であるという点だ。これだけの群像劇を成功させようとすると当然そうなるのだが。ただ登場するキャラクターがラノベにありがちなステレオタイプ的な要素ばかりではないというのはやはり注目すべきだろう。舞台設定とギャングや錬金術師、不死者といった設定面だけの話ではない。世界の全てを殺そうとする奴やらなんやら、危ない薬を決めたような連中がわんさか出てくるし、それに負けないくらい強烈なのにそこそこまともな人間も結構出てくる。彼らを今のライトノベルの語彙で表現するのは難しいだろう。「ツンデレなキャラ」とか言われてこいつですということは、ちょっとできない。

 小説というのはある程度型にはまらなければいけない部分もあるものだが、そこからいかにうまい具合に逸脱できるかが作品の面白さを決めるのだろう。そういう意味では本作は、うまい具合にライトノベルの型から逸脱し魅力を引き出せた作品と言えるだろう。
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2016年11月06日

【読書狂の冒険#040】高橋弥七郎『灼眼のシャナ』アスキーメディアワークス

 無事リアルな事情も片付きつつあるので、今月から週1連載に戻していく。ただしょっちゅう記事を書くのを忘れるので、土曜21時更新を日曜21時更新に変えることにした。これで忘れていても休日1日で記事を書いてしまえる。
 今月のテーマは『電撃文庫』。ライトノベルの最大手といっていい、少なくとも私がラノベを読んでいた時代はそうだったレーベルである。今は知らない。このテーマで取り上げる作品を選んでいる時に気がついたのだが、私はライトノベルを意外と読んでいるようで読んでいなかったらしい。一口にラノベといってもいろいろなレーベルがあるし、私は電撃文庫以外もちらほらと読んではいたという事情もあるが、案外タイトルがすっと思い出せないのだ。あるいは、単に昔の話だから思い出せないだけなのかもしれないが。

 『灼眼のシャナ』は、シャナと呼ばれる少女が炎をまとった刀で敵をばっさばっさと切り倒していく、現代能力バトルものと説明してしまって間違いはないだろう。本当は主人公の少年に宿る宝具がどうたらこうたらという背景もあるのだが、ラノベ特有の専門用語をいちいち調べるのが面倒なので割愛させていただく。
 今でこそ某流石なお兄様の影響で「平凡で平均的な俺」が無双する話がラノベの定番(最近の潮流はそこに加えて異世界転生がプラスされるが)なのかもしれないが、このころはまだそういう系統の話は少なかったような気がする(某レベル0の例もあるけど)。本作の主人公も、平凡というところと何やらすごい能力があるところはしっかり備えているが、戦闘力が皆無なので戦いでは何ら役に立たない。すごい能力も、シャナたちが使うエネルギー(存在感のようなもの)が毎日0時になるとどれだけ消費していてもリセットされて満タンになるというヒーラータイプと表現できるものだった。
 そう、このころの標準的なラノベは「いろいろな面でずば抜けた美少女に平凡な俺が振り回される話」が基本だった。ラノベの開祖的な作品である『涼宮ハルヒの憂鬱』もそうだし、今月の最後に取り上げる『電波女と青春男』もそういった要素がある。まあ今でもハーレム系のラノベはそういった構成なのだろうが、あらゆるジャンルでそうだった時代は今や昔だ。
 にしてもだ、どう見たって役立たずな主人公に超人的な能力をもつ少女が惹かれるというこの時代にはテンプレだったストーリーには当時の私もちょっと理解に苦しんだ。ここでいう主人公はオタクの嫌いなヒロイン筆頭候補の「無能な癖に飛び出して窮地に陥るヒロイン」とまんま似たような感じなのだが、自分が代入できるポジションだと全然気にしないというのも随分都合のいい話ではある。ヒロインに対してもおせっかいながら「そいつは禄でもない役立たずだからやめとけよ。そこにもっと有能な男いるだろ」と何度も言いたくなってしまう。まあシャナに登場する能力者って大多数が女だったような気がするが。
 今は一応理不尽なまでの無双という形で役に立つ主人公な分、オタクの恋愛観も多少進展したと考えるべきなのかもしれない。少なくとも「できない自分を受け入れて!」ではなくなったわけだし。

 だいぶ話がそれたような気もするが、よくよく考えるとシャナは私が最終巻を読んでいない作品の1つである。というかラノベの大半がそうなのだが。これはラノベが小説の出版ペースに週刊漫画並の引き延ばしを組み合わせた必然的な帰結である。順当にラノベから「卒業」した場合、つまり小学か中学生から高校生まで長く見積もって7年の間に完結する作品が滅多にないような状況がラノベにはあるということだ。今もおそらく大差ないだろう。一応『電波女と青春男』は完結まで読んだが、それ以外は全滅という状態だ。大作にもほどがある。漫画ならともかく、曲がりなりにも小説が十何巻もあったら付き合いきれないというのが本音だ。そりゃ、途中で作者も死のうというものである。赤川次郎作品並みに各話の繋がりが適当ならまだしも。
 ちなみに私は、『灼眼のシャナ』は「主人公の中の宝具の元の所有者の恋人が主人公たちの前に現れた」あたりまで読んだ記憶がうっすらある。知らない人は何が何だかだろうが、一応説明すると、主人公の中にある宝具は所有者が死ぬと別の人間の中に移る性質があり、登場当初から前の持ち主の存在は仄めかされていたので読者からすると中々驚きな展開のはずだが、そこにいたるまでに確か十巻近く費やしている。モンテ・クリスト伯もビックリである。7巻ちょっとで「長きにわたる物語のカタルシスすごい!」とか思ってたぞ過去の私。
 こうなるともうラノベの文体が合わない年齢とか関係なしに読み返す気力が湧いてこない。風の噂によればその後も主人公が敵にまわったりとか驚きの展開があるらしいのだが、結末を私が知ることは多分永遠にないだろう。せめて主人公たちが幸せな結末を迎えられていることを、他人ごと程度には祈りたい。
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2016年10月22日

【読書狂の冒険#039】山野車輪『マンガ嫌韓流』ムック

 今までいろいろな意味で駄本と評価できる本を紹介したが、このテーマでこの本を紹介しなければ手落ちというものだろう。今やネトウヨのバイブルと言っても過言ではないのが本書である。ただただあらゆるうわさと想像力を駆使して韓国を悪し様に言うことに情熱を燃やした、もうその時点である種病的な本だ。漫画だから文字を追うのが苦しいネトウヨにも受け入れられた。ネトウヨのいうデマの大半の出典がここだと言ってもいいだろう。

 私がこの本に出会ったのは高校生の頃。最寄り駅の入っていた建物には書店も入っており、そこに本書が並べられていたのである。高校生の私には本書の内容が正しいかどうか判断することが出来なかったが、なんとなく嫌な感じがして本書の内容を信じることはなかった。今では、その直感を持てた幸運に感謝している。
 本書に感じた嫌なものの原因は、韓国人をありとあらゆる面で罵ろうという異様な情熱が表現に溢れていることだった。例えば、何かの理由で(思い出せないし読み返す気もないが)日本人と韓国人が議論する展開があったのだが、その時作者は論敵である韓国人を非理論的かつ感情的な人物として書いている。ディベートだったので両陣営とも複数人いたのだが、その韓国人サイドの全員をそのように描いていたのだ。一方のイデオロギーに固執し、全体像が見えなくなっている作者がよくやる手法である。自分のサイドを頭よさげに描けないから、相手を貶めて相対的に自分を上げようとしているのだが、結局のところ自分サイドのレベルが上がっているわけではないので作者の地力が露呈するだけだったりする。本書に出てくる韓国人は皆エラがはって目が細いという、韓国人ステレオタイプを反映した外見をしているのだが、これも作者の現実認識能力が低いことを自ら開陳しているに過ぎない。
 さほど利口そうに見えない日本人サイドの男子高校生が、ズバズバと韓国人を「論破」していくという今どきのラノベめいた構造も、今思えば示唆的だった。

 本書が出始めたころに、既にネトウヨは存在していたが、そのころはまだ「荒らし」と同じようなカテゴリであり、馬鹿で迷惑な奴といった認識だった。このような本も、政治関連の棚に置かれてはいたものの「芸能界の真実!」みたいな与太本と同じような扱いだったと思う。
 しかしあれから年月が経ち、状況は変わってしまった。今やネットを多用する人々はネトウヨ的な思想、認識を多かれ少なかれ受け入れていない方が珍しいといった感じですらあるし、オタクと呼ばれる人々はほぼイコールでネトウヨになってしまったと言ってもいい。本書のような、本来与太本であるはずの本が今や政治関連の棚に「現代ビジネスマンの教養でござい」といった面構えで並び、落ち目のジャーナリスト、評論家気取りが食い扶持を稼げる程度には市場が拡大してしまった。
 それが日本人の本性の発露であるのか、本書のようなものを放置した結果の増大なのかはさておくにせよ、本書が日本社会に落とした影は今まで取り上げた本の比較にならない。本書を駄本と評するのは、問題の矮小化だともいえるのかもしれない。
 本書のようなヘイト本に対して、ようやく出版社も真面目に考えるようになってきた。本書のような表現が表現の自由の範疇であるとはとても思えないが、しかし憲法がそれを保障している以上、最終的には作者、出版社、書店、そして読者の良心によってこのような本を防ぐしかないのだろう。
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