2016年12月05日

【読書狂の冒険#044】伊藤和幸/F.E.A.R『ダブルクロス The 3rd Edition リプレイジェネシス@ 放課後のアルテミス』富士見書房

 遅れて飛び出てじゃじゃじゃじゃん。今月からのテーマはダブルクロスリプレイ。カクヨムへの投稿といい単にダブルクロスにはまっているだけじゃないのと言われれば返す言葉もないが、私のブログなので好き勝手やらせてもらう。
 しかしさすがに、ダブルクロスって何だという説明抜きに話を始めるのは、TRPGに明るくない読者に不案内にもほどがあるので、説明させていただきたい。ダブルクロスというのは、電源なしでRPGを楽しむゲームの形態であるTRPGの1作品である。PLたちは現代社会に生きる超能力者「オーヴァード」になり、邪悪な敵である「ジャーム」に打ち勝つことを目的とし、協力して戦うのである。本作のポイントが、「オーヴァードの存在は一般人には秘匿されている」ことと「オーヴァードは暴走するとジャームになる」ことだろう。つまり、オーヴァードとなったPLは、そのことを知らない一般人である友人といった大切な人たちに、そのことを明かさぬよう孤独に戦わなければならないし、自分も敵と同じ存在になる恐怖を乗り越えなければならない。

 で、本作はDXの第3判、現在一般にプレイされているルールブックの発売以降初めて発表されたリプレイになる。コンセプトは「経験者と初心者が一緒に楽しめるシナリオ」だそうで、実際にPC2はOPではオーヴァードに覚醒していないという設定になっている。
 あらすじとしては、一般人の女子高校である敷島あやめが、ある日ジャームに襲われオーヴァードに覚醒したことに端を発する物語と言ったところだろう。ジャームと戦う組織であるUGNの基本設定、セッションの進め方などの基礎もきちんと説明してくれているので、まさに初心者向けと言ったところだろう。
 ダブルクロスのセッションに登場するPCというのは、本作の敷島あやめのように「セッションのOPで覚醒すると」いう指定が無ければ、大半の場合セッション以前にオーヴァードとなっているものである。それは、そのままPCたちが既に非日常の世界に親しみ、ジャームとの戦いに何ら疑問を抱かずに加わり、そして躊躇いなくぶっ殺すことを意味している。無論PC個人の設定としては、過去にそのことへの葛藤もあっただろうし、セッションをしている最中にもしているかもしれないが、スムーズにシナリオを進める都合上、ハンドアウトで求められない限りはそのような葛藤が表に出ることはない。
 だからこそ、多くのPLにとって敷島あやめのような「覚醒したてのオーヴァード」は、読者という立場でもPLという立場でも魅力的に見えるのだろう。日常から非日常への移行、そこに現れる戸惑いやためらいといった、その役割特有の要素を演じることができる機会というのは、そうそうあるものではない。

 それと、これは本作に限った話ではないのだが、セッションはやはりキャンペーンに限るかもしれないというのが私の持論である。日程が合わせやすく、シナリオも調達しやすい単発セッションも十分楽しいのだが、キャンペーンにはその困難に見合った楽しみがあると思う。
 その最大のものは、自分のキャラクターが他人のキャラクターと交流し、自分1人では見つけられなかった側面が明らかになったり、予想の出来ない方向へ流れていったり、今までの積み重ねがRPに反映されたりといったものだと思う。要するに、自分1人ではできないことが、みんなでやればできるということに尽きるのだろう。しかしそれは、単発のセッションでは時間が少し物足りない。3話4話と積み重ねるからこそ得られるものもあるのだ。
 本作のような文庫本1冊分の物語を1人で書こうとするのは大変な困難だ。しかも、書き上げたところでその世界を共有してくれる読者が現れるとは限らない(読んでくれても、反応が返ってこないとあまり共有したという気にはならないだろう)。しかし、セッションであれば1人で書き上げるよりは容易く、それだけの厚みを持った物語を作り上げることができるし、出来上がった時には既にその世界を共有してくれる人々がいるのだ。

 本作はその後、調べた限りでは4巻まで出るようなのだが、手元には1巻しかないので、その後の彼らの物語はわからずじまいである。案外本屋に売ってないし、この手のリプレイは結構ブックオフとかに並んでたりもするのだが、見たことはない(アリアンロッドの方が多い印象)。
 しかしまあ、物足りなければその先は自分で作り上げることができるのがTRPGのいいところだろう。
posted by 新橋九段 at 23:59| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書狂の冒険 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月27日

【読書狂の冒険#043】入間人間『電波女と青春男』アスキーメディアワークス

 テーマ「ライトノベル」の最後を飾るのは入間人間の『電波女と青春男』。この作品は私のラノベ経験には珍しく(?)全部読んだし、全部買ったシリーズである。私がラノベを読むときは大抵借りものだし、しかも最終巻まで読んでないことが多いこと多いこと。

 本作を今の時代の語彙で敢えて表現するとすれば、ハーレムものに近いのだろうか。主人公の丹羽真が居候先で出会った従妹の藤和エリオや高校の友人たちとわちゃわちゃやる内容に終始している。青春小説と表現したほうが的確だろうか。どちらにせよ、流行のハーレムものに比べてヒロインとの関係その他に関する、お約束とも言える無糖滑稽さが薄いので、かえって読者の受けるいろいろなダメージが大きい作品でもある。高校生のとき読んだら青春観があらぬ方向(一般的なオタクとはずれた方向)に捻じ曲がるし、二十歳を過ぎた身の上では耐えられる気がしない。流石タイトルに「青春男」を関するだけあって、青春描写が爽やかで辛い。

 本作のもう1つの特徴は、青春ポイントというシステムにある。これは主人公の極めて主観的な基準によって加算される、「青春っぽさ」を点数化したシステムである。要するに主人公が青春を感じれば増加していき、それとは反対に青春を感じなかったり隕石に体を削られたりすれば減るという、その場のノリを体現した仕組みである。
 ライトノベルが直面する問題の1つに「平凡な主人公」問題というものがあると、私は勝手に思っている。つまり、「流石ですわお兄様」でない限り、読者の感情移入先になりやすい主人公にできるだけ突出した特徴を与えたくないというのが作者の思惑となる場合が多いのだが、一方で本当に平々凡々ではお話にならないのでなんらかの突出した特徴を結局は、ことによっては作者すら気がつかぬうちに与えることになる。すると、作品の最初の方で「俺はどこにでもいる平凡な高校生」と言ってたくせに全然違うじゃないかという事態が起こる。これは主人公の描き方によってかなり嫌味に見えてしまうし、折角の感情移入先に反感を抱かれたのではその先を読んでもらえなくなってしまう。
 その点、本作は「青春ポイント」を主人公が逐一考えているという設定で、この問題をうまい具合に回避しているようにも見える。丹羽真は確かにこれといった特徴のない、「平凡な主人公」ではあるが、青春ポイントという要素が入った瞬間に「ちょっとだけ変な奴」になる。しかもその変な感じが、いかにも変人という印象を与えようとしているのではなく、実に淡々と本人の中で行われているのが、「ちょっとだけ」に拍車をかけている。その結果、周囲にエリオを始めとする変な人々が集まってきても「ああ、類が友を呼んだんだな」としか認識できなくなり、嫌味みたいなものも薄まる。不思議と、彼の青春ポイントが削られると彼のおかれている境遇があまり羨ましくない気がしてくるのだ。
 とは言っても、やっぱり羨ましい気もするのだが。

 本作の前に出版されていた、作者の作品が如何にもおかしい奴と如何にもおかしい奴のラブストーリーだったせいもあって、本作はうまくラブもヘイトも薄めた作品に感じた。いうなれば、前作でカルピスの原液を飲まされていたのが、今回はカルピスソーダだったみたいな話だと思う。まあ、私は炭酸苦手なんだけども。

 そういうことを適当に(この記事はいかにもわかったふうな書評っぽく書いているが、そんなことはない)考えていると、この年になってラノベが読めなくなったのは、最近ケーキ一切れがしんどくなってきたとか、昔より焼き肉が食べれなくなったみたいな話なのかなぁとも思えてきた。
 もっとも、周囲を見てみると年齢が上がっても相変わらずラノベ万歳な人間も結構いるのも事実だ。うん、まだ彼我の差の理由はよくわからない。
posted by 新橋九段 at 21:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書狂の冒険 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2016年11月20日

【読書狂の冒険#042】時雨沢恵一『キノの旅 -the Beautiful World-』アスキーメディアワークス

 今回はキノの旅。とは言っても読んだのがもうオリンピック2回分くらい昔なので、それぞれのエピソードなんて覚えているはずもなく……。
 本作は主人公キノと喋るモトラド(注・二輪車。空を飛ばないものだけを指す)であるエルメスの旅を主に描いた作品である。他にも登場人物がいて、彼らの視点に移ることもあるがそれは割愛。
 本作で不思議な点は、ライトノベルの中で受けそうな要素が余りにもないにもかかわらずヒットしている点である。確かに主人公のキノは能力的には作中最強キャラではあるし、パースエイダー(銃)やモトラドの設定なんかは中高生男子の趣味ど真ん中といったところかもしれないが、その程度である。別に自分を代入しやすそうな没個性主人公がヒロインとキャッキャウフフするわけでもなく、ど派手な異能力バトルが始まるわけでもない。一体何がこの作品をヒットさせたのだろうか。
 Wikipediaをみると、風刺作品的な一面があるという記述が見つかる。私が読んでいた時の印象は、確かにそういった雰囲気はあるものの別に風刺が効いているとか、特段現代社会における何かの問題が念頭に置かれているといった気はしなかった。まあ、中学生の頃の私の読解ではあるから、今読んだらもう少し違う感想を持つのかもしれないが。しかし、当時すでに犯罪心理学に手を伸ばしつつあった、つまり客観的にみても平均的な中学生よりは社会の問題に詳しいと考えられる私でこうなのだから、失礼な話この作品を読んだ中高生の大多数が本作に風刺的な意味合いを読み取れるとは思えない。いやマジで。

 しかし思い当たる節がないわけではない。それは、本シリーズの刊行が2000年に始まっているということだ。このころはゼロ年代と呼ばれる時代であり、セカイ系と呼ばれる作品の最興隆期であったはずだ。たぶん。
 無論『キノの旅』はセカイ系とは似ても似つかないジャンルの作品ではあるのだが、読み手の解釈に大いに委ねられる作品であることは共通しているだろう。少なくとも一般のラノベよりはだいぶ共通している。そして、私は全然心当たりないのだが、ある人曰く昔のオタクというのは読み巧者だったらしい。その昔がゼロ年代を指すのかは不明だが、少なくとも今よりは解釈に余念がない年代であったのではないかということは想像できる。
 読んだことがないから何とも言えないのだが、『ブギーポップは笑わない』とかも同じような文脈で流行ったのではないかと予想している。これは本当にタイトルだけの想像だが、当時は解釈が幅を利かせやすい作品が流行りやすい下地があったのかもしれない。
 いったい何が原因で、そのような時代から書いてあることを満足に読み取ることもままならないオタクの時代になってしまったのかは不明である。案外、元々そういう人々が主体だったのであり、Twitterのようなツールによって可視化されやすくなっただけなのではないかと踏んではいるのだが。

 それはともかくとして、今現在のラノベ業界はこういった解釈に委ねられるような作品が芽を出せる状況にあるのだろうか。設定すらテンプレ化した作品たちに囲まれた読者たちは、このような作品と衝突した時にどのような反応を見せるのだろうか。
 どうだろう。案外、今もこんな感じの作品は一定数あるのかもしれないが。
posted by 新橋九段 at 21:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書狂の冒険 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする