2016年10月01日

【読書狂の冒険#037】百田尚樹『風の中のマリア』講談社

 バタバタもここに極まり、ついに結構投稿予定をぶっちぎってしまったので、思い切って1週間遅らせることにした。
 ともあれ、今回は百田尚樹『風の中のマリア』。何かと舌禍事件で世間を騒がせる著者だが、本書はそれとは違う意味で酷いものだった。
 本書は蜂が主人公のお話。働き蜂のマリアが幼虫のためにせっせと狩りをしたりして生存競争に励む、アイデアだけは面白そうな1冊になっている。

 なぜ私がここまで酷評しているかというと、ひとえにマリアやほかの昆虫たちの心情描写や内面描写がとてつもなく酷いもので、全くと言っていいほど共感できないものになっているからだ。
 本書の終盤、女王蜂の衰弱に伴い働き蜂たちが相談事をする。このまま女王蜂を放っておいていいのか。いっそ殺してしまって、働き蜂たちが新しい女王蜂になることに賭けた方がいいのではないかという話だ。今まで一生懸命仕えてきた女王、マリアにとっては母親でもある女王の処遇のことだ。マリアの葛藤は計り知れない……はずだった。
 しかしここで、著者は何を思ったのか、わけのわからない話をマリアたちにさせ始める。曰く、ゲノムがどうとか、遺伝子がどうとか。つまり、マリアたちはこのまま巣が衰退するのを放置するよりは、女王の遺伝子を半分受け継ぐ自分たちが旅たち新たな巣を作った方が結果的に女王の遺伝子を多く残せると結論するのだ。
 これはどう考えてもおかしい。人間と蜂の思考形態は一緒ではないが、行動するときにゲノムが云々などと考えないことは共通しているだろう。その前に、蜂の知能と科学技術ではゲノムという概念を理解できるかも怪しい。にもかかわらず、マリアたちはさも当然のようにこの概念を操っている。これは生物学的に驚愕の事実である。ここまで知能の高い蜂がいたとは。
 そもそも中盤で、マリアがあるクモと会話している時に、クモが自分自身でこの種類のクモにはこれこれこういう習性があって〜などと説明しているが、そんな奴もまずいない。なぜこのクモは生物学者みたいな目線でしゃべっているのだろうか。
 このような不可解な描写のせいで、まったくマリアたちに共感も感情移入もできないのが本作だ。さすがにもうちょっと何とかなっただろうと言わざるを得ない。

 昔、本書が有名になったころTVで著者が、番組を作る中で得た知識を作品に生かしたという話をしていたと記憶しているが、それが正しければ本書ではその知識は単なるうんちく披露にしか役立たなかったように思える。例えば、蜜蜂がスズメバチを殺すために、スズメバチに密集して温度を上げる行動をとることは有名だが、それに初めて直面したスズメバチであるマリアからは全くそのことに関して恐怖とか驚きが感じられない。

 加えて、本書は著者が保守論壇で活躍するようになる以前に書かれたものだが、既に著者の、というか保守論壇にありがちな「個よりも全」的な考え方というものがちらほら出ている。巣のために身を粉ににして働くマリアなどはその思想の典型的な表出だろう。それはまあいいのだが、結局マリアが働く理由がゲノム云々では彼女の苦労の意味がさっぱりわからない。
 よく作品と著者は切り分けて考えるべきだなどという人がいるが、私はそうは思わない。第一、その人を知ってしまえば作品への評価に多かれ少なかれ影響することは避けられない。できないことをするべきだといったところで何の意味もないだろう。

 本書は、ただつまらないだけという意味では今回のテーマで取り上げられた本の中では一番ましなものである。ただ、後続の作品の出来を見る限り、本書が不幸にも著者のベストセラー作家としての地位を確立してしまったのであれば、文学にとっては最悪の1冊なのかもしれない。
posted by 新橋九段 at 21:00| Comment(0) | TrackBack(0) | 読書狂の冒険 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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